
お気に入りの場所
2008年12月7日

2008年秋、あるプロジェクトに関わっていた。私は動物写真担当で、みなかみの山でとにかく動物を探して撮影する仕事に取り組んでいた。対象は小さなネズミから生態系の頂点に君臨するツキノワグマやイヌワシまで動物全般だ。
この仕事は私にとって少々プレッシャーだった。なぜならこの地で小さなキクイタダキから雄大なイヌワシまで鳥類はいろいろ観てきたのだが、なぜかこれまで四つ足にはあまり縁がなく、ニホンカモシカにさえ出会っていなかったからだ。
プロジェクト始動後の11月にはツキノワグマの影、はるか遠くのニホンジカ、ヤマドリなどに出会っているが、いずれも写真が撮れるような状況ではなかった。紅葉にニホンザルを撮影した程度でほとんど成果がなかった。
12月、初冬の赤谷。いつもと同じく山を歩くが、視覚だけでなく、いつも以上に聴覚に意識を集中し、かすかな物音を拾って確認しながら進む。かさかさという枯れ葉の音の主はシジュウカラだった。五感を研ぎ澄まして相手を求める私は、猟師と同じような殺気、いや撮気を放っているかもしれない。そんな私の目に、こののんびりとしたノウサギが止まらないはずはなかった。根雪がない景色に真白な冬毛だったので目立つからだ。ただ、前や下を向いて歩いていればとても見つからない場所だったので、執念の発見ではあった。
写真を押さえながら徐々に近づいていくが、すぐ逃げてしまうという予想に反してノウサギはそのままほとんど動かなかった。私は近づけるだけ近づき、最終的に小さい谷を挟んで約50mほどの距離で向き合い対峙したが、それでもノウサギは逃げなかった。私はウサギの生態をほとんど知らない。基本的に夜行性で、日中に観察することが難しいのは知っている。実際、私が野生のウサギを発見して観察したのはこれで2回目に過ぎない。初めて観察したのは北海道豊頃町で見かけたエゾユキウサギで10年ほど前の話だ。
さて、ノウサギのこの無防備と思える行動にどんな意味があるのか、この後どのような行動に移るのか、自然観察者である私は成り行きを見届ける義務があった。おい!何やってんだ?ひなたぼっこか?
私は餌付けヤラセ一切絶対厳禁で、歩き回って撮影するスタイルなので、手持ち撮影が基本だ。以前は500mmや600mmを一脚に載せて肩に担いで歩いていたが、それだと生き物たちが逃げてしまうことがわかったので(そのシルエットは猟師が鉄砲を担いでいるように見えるのだろう)、400mm程度を肩に下げて、出会いがあると手持ちで撮影するというスタイルを確立した。手持ち撮影はブレなどの面でやや歩留まりが悪いが、機動性とチャンスの確保は抜群だ。ブレに関しては日頃から鉄棒懸垂で鍛えている人間手ぶれ補正がばっちり効いてくる。
とはいえ、歩留まりが悪いのも事実なので、チャンスのある限りは何度もピントを合わせ直してシャッターを切りまくる。プロだから何でも精度の高いピント合わせを素早くできるかというと、そうでもない。そしてAFは信用できないので、補助的に利用する程度で、MFで合わせるのが常識だ。
そんなわけでなかなか逃げないウサギ君を何回も撮りまくったが、露出の面でも苦労させられた。ノウサギはデジタルの苦手な真っ白な被写体だった。トーンジャンプが激しく、直射日光が当たった状況では露出をかなり抑えめにしても白飛びは抑えきれなかった。そこでアクティブDライティングを利用して、調整をはかって、少しまともな撮像が得られたが、露出を抑えめにした上でアクティブDを最大に効かせてやっとというところだった。
そんな風に人間が苦闘している間もウサギは微動だにしない。私は横位置、縦位置とバリエーションを撮ったり、よりよいアングルを探したり、散々やり尽くして撮影を中断したが、それでもウサギは動かなかった。昼時になり、私はウサギを観察しながら弁当を食べ始めた。動かないウサギ、箸を運ぶワタシ。動かないウサギ、お茶を飲むワタシ...今この時、日本全国で野生のノウサギを観察しながら弁当を食べているのは私ぐらいなものだろう…昼食を終えてもウサギは動かない。もう1時間30分は過ぎただろうか。
エナガの混群が私の頭上に来た。コガラやコゲラも混ざっていて、かなり賑やかだ。愛用のリニアPCMレコーダで声を録音した。そして、その群れはそのまま谷を越えてウサギ君の頭上へ。鳥たちの賑やかな声にウサギ君がどう反応するかと思って注目していたが、相変わらず微動だにしない。鳥たちの心地よい声はあの大きな耳にどう届いているのだろう…この山の中で私とノウサギが同じ野鳥の声を耳にしていることがなんだか嬉しかった。
2時間30分が過ぎ、あまりにも動かないので、もしかして死んでいる?と思い始めた。そこに仲間が戻ってきて活動の時間も迫っていたので、真相を確認すべく少しウサギに近付いてもらうことにした。仲間が10Mまで近づいたところでウサギはピクッと反応し、向こうの斜面に姿を消した。当たり前だが彼は生きていた。いったい彼の目的は何だったのだろう。。。
帰り道にはニホンカモシカを撮影することができ、充実した日だった。
不思議な再会
2008年12月30日

年末、法師温泉に逗留しながら山で動物を探していた。前日にはオオアカゲラを撮影できたが(ここでも苦闘があった)、前日までの3日間の成果は乏しく、とりわけ2日目に吹雪の中で冷たいおにぎりを食べた悔しさは忘れられない。今日は最終日で帰る日だったが、うっかり宿の鍵を持って出てきてしまったことに気づいたのは山の入り口に着いた時だった。一瞬、宿に引き返そうかとも思ったが、下山して帰りに返しに行けばいいかなと思い直した。
最初の2日間は厳しい天候だったが昨日はだいぶん緩み、晴れた。今日も朝方は曇っているものの日中は晴れて気温が上昇しそうだ。
歩き始めてすぐに上空をクマタカが旋回した。200-400mmでは写真にもならなかったが、今日の幸運を祈ってくれているかのようで、なんとなく嬉しい観察だった。良く見かけるわりには写真が撮れていないカケスと格闘しながら道を進んだ。途中、ウソやジョウビタキ、ルリビタキ、マヒワなど常連ともいえる野鳥たちを観ながら進むが、なかなか決定的な場面には出会えない。まあ、ヤラセなしではいつもこんなものだ。途中、以前にノウサギと出会ったポイントを確認するが、まあ同じ場所にいるはずもない。そのポイントは3週間経った今、雪に覆われていた。
特に「当たり」がないまま、折り返し点に到着し、おにぎりをほおばった。天気はすっかり良くなりぽかぽかと小春日和になった。同じ法師温泉特製のおにぎりだが、2日前に真っ白な景色の中で食べた時よりも格段に美味しかった。しばらく休息し、歩いてきた道を元に戻った。今回はこんなものかな...でもフィールドは終わるまで何が出るかわからないな...そんなことを思いつつ五感を研ぎ澄ましながら歩いた。
道は再びノウサギポイントに至り、念のために確認してみると雪の上に白い塊が載っているのが見えた。この塊、確か行きに確認した時はなかったはずだ。それに小春日和になって、根雪もだいぶん融けたのに塊があるのは不自然?…そうは思っても冬の山の白い景色の中には白い塊がところどころにあるので、それがノウサギであることは双眼鏡を覗くまで確信を持てなかった。
ノウサギは前回12月7日に観察したのと全く同じ場所にいた。日中ウサギを観る機会は少ないので、まさかまた観ることができるとは思わなかったし、それも広い広い山の中で、全く同じ場所で観るとは予想外だった。心情的には同じ個体だと思いたいところだが、科学的にその確証は全くない(個体識別できる特徴はないようだ)。
今回もウサギ君は逃げずにじっとしていた。前回と同じウサ見場所で写真を撮り、観察した。ファインダーの中は前回よりもさらに白い。もちろんアクティブDライティングを効かせ、横、縦、テレコン装着、ライブビューで撮影、と一通りの撮影をした後、前回同様近づいてみることにした。今回は私独りなので、高速シャッターの露出を用意した機材をたすきにかけ、懸垂で鍛えた腕力を活用して木にぶら下がりながら急斜面の尾根を下っていった。ウサギ君はなかなか動かなかったが、前回同様10m前後になったところで走り出した。咄嗟に、あらかじめ用意した高速シャッターでそれを捉えようとしたが、想像以上に動きが速いのと林の中は障害物だらけなので写真は思うように撮れなかった。ウサギ君を脅かしてしまったことにちょっと罪悪感を感じたが、その後カモシカの親子がのんびりひなたぼっこしているのに出会ったり、あまり見かけないニホンリスがひょっこり出てきたりと、今日帰る日になっていくつもの機会が訪れた。私の好きなブランド、ポール・スミスではラッキーアニマルとしてウサギがモチーフになっているが、私にとってもウサギはラッキーアニマルなのかもしれない。
あれから半年が過ぎた。通るたびにノウサギポイントを確認するが、3回目の出会いは、ない。なぜウサギ氏が2度同じ場所にいたのか私にはわからない。巣が近くにあったのか、お気に入りのひなたぼっこ場所なのか。ウサギは高次捕食者の人気獲物ランキング上位だから、彼はイヌワシかクマタカに食べられて彼らの糧として役に立ったのかもしれない。いずれにしても2008年の12月にウサギと過ごした何時間かのかけがえのない時間は私の中で生き続ける。そしてその出会いをきっかけとして彼の姿は多くの人が見る印刷物になり、大きく引き伸ばされて東京のオフィス街の片隅で飾られた。当の本人はまさか自分の姿が有楽町に飾られ、一躍有名ウサギになっていることを全く知らずに今も山の中を元気に走り回っているかもしれない。


